1943年、岐阜市長良葵町に創業した醤油蔵「山川醸造」。木桶を使った伝統製法にこだわり、グルテンフリーのたまり醤油を今もなお丁寧に仕込み続けています。本記事では、静かに受け継がれるたまり醤油づくりの背景と、発酵の奥深さに迫ります。
2025.05.22-
目次
- 混乱の時代に誕生した山川醸造
- 醤油5種の中で、最も時間を紡ぐ「たまり醤油」手間が生み出す深遠な味
- 微生物とともに醤油の出来栄えを左右する「木桶」
- 伝統の味を届ける「山川醸造」のたまり醤油
- ディープな発酵の歴史を100年先へ
混乱の時代に誕生した山川醸造

JR岐阜駅からバスで約20分、「長良北町」のバス停で下車すると、ふと鼻をくすぐる香ばしい香りが漂ってきます。この香りの先にあるのが、老舗のたまり醤油醸造所「山川醸造」です。
創業は、第二次世界大戦中の1943年。岐阜の地で、伝統的な手法を守りながら、たまり醤油を造り続けてきました。今回お話を伺ったのは、4代目の山川華奈子さんです。
当時の記録はほとんど残されていませんが、創業の背景について、山川さんはこう語ります。
「創業者はもともと酒屋の問屋を営んでいて、当時の酒屋には醤油も並んでいたそうです。誰でも口にできて、地域の役に立つものを――そんな思いから、醤油造りを始めたのではと感じています」

山川醸造が受け継いでいるのは、鎌倉時代から伝わる「たまり醤油」。豆味噌を仕込む過程で、木桶の底に溜まった液体を「たまり」と呼んだことに由来します。
現在では、木桶で仕込む醤油は日本全体の流通量のうち、わずか1%に満たないとも言われます。それでも山川醸造では、4箇所の蔵で今もなお、丁寧にその味を守り続けています。
では、そもそも醤油とはどのようなものなのか。たまり醤油はどのように生まれ、どのように育まれてきたのでしょうか。
その答えは、日本人が長い歴史の中で受け継いできた「発酵の知恵」の中に見えてきます。
醤油5種の中で、最も時間を紡ぐ「たまり醤油」手間が生み出す深遠な味

醤油は大きく分類すると、濃口、淡口、再仕込、たまり、白醤油の5種類に分けられます。その中でも山川醸造で醸造している醤油は、最も色が濃く、深い味わいを持つ「たまり醤油」です。
これは一般的な醤油が半年ほどの熟成期間なのに対して、たまり醤油は2年もの熟成期間を設けているから。年月を重ねることで、タンパク質が分解され、うま味がぐっと凝縮されていくのです。
5種類の醤油の味を左右するのは、原料に使われる水、塩、大豆、小麦の配分と熟成期間。山川醸造では大豆を100%使用し、たまり醤油本来の旨味をグルテンフリーで引き出しています。
対照的に、白醤油は小麦を9割、大豆を1割という配合で仕込み、香り高く軽やかな風味に仕上がります。
「大豆が多ければ熟成には時間がかかりますが、その分、うま味がしっかりと引き出されます。小麦が多いと、発酵は早く進み、華やかな香りが立ちやすくなります」と、山川さんは語ります。
たまり醤油は、この地域に根づいた地醤油としても知られています。山川醸造では、昔ながらの製法にこだわり、時間と労力をかけて、“深遠な一滴”を丁寧に造り続けているのです。
発酵と腐敗は紙一重、職人の技術が光る麹作り

たまり醤油づくりは、まず蒸した大豆に麹菌を繁殖させるところから始まります。約1,000軒ある醤油メーカーの中でも、麹作りから手がけている醤油蔵はあまり多くないそうですが、山川醸造では「麹室」と呼ばれる専用の部屋を設け、一から麹作りに励みます。
「麹室の中は湿度100%、室温30度。この麹室の中で、3日かけて麹を作っていくんです。昔から人間の手で繁殖させられてきた麹菌は、日本の国菌にも指定されているんですよ。ただ、人に育てられてきたせいか、放っておくと焼け死んでしまうので、ちゃんと手をかけてあげないといけない。そんな少し不器用なところも、どこか愛らしいんです」と、山川さんは愛情たっぷりに麹菌の魅力を語ってくれました。
発酵と腐敗は、紙一重の化学変化。
人にとって有益なものを発酵、有害なものを腐敗と呼び分けているに過ぎません。醤油の麹作りも温度や湿度を見極め、手間暇をかけて、腐敗しないように紡がれてきた技術なのです。
重石を使い、たまり醤油独自の仕込み法で

大豆に麹菌がしっかり育ったら、いよいよ仕込みの工程。木桶に大豆を入れ、その上に布をかけ、さらに重石を乗せます。
「重石を使うのは、たまり醤油独特の製法です。たまり醤油は仕込み時の水分量が少ないため、他の醤油のように途中でかき混ぜる、いわゆる“撹拌”ができないのです。そのため重石で圧力をかけて、液体の対流を促しているのです」と、山川さんは教えてくれました。

仕込み水は、重石を置いた後に注ぎ入れます。使用するのは、醤油蔵の地中に流れている長良川の伏流水。浄水し、塩を加え、木桶に流し入れれば、仕込みは完了です。
一般的な醤油は半年ほどの発酵期間ですが、山川醸造では、最低でも2年間の熟成期間を設けているそう。大豆100%で作っていることや、冷暖房機能のない蔵で仕込まれている昔ながらの製法が、たまり醤油の仕込みをよりゆっくりと、丁寧なものにしているのです。
仕込みの2年間は、麹菌の力を信じ、じっくりとその働きを見守る時間。とはいえ、山川さんたちが2年間ずっと“何もせずに待っている”というわけではありません。
たまり醤油造りに欠かせない、ある大切な工程が、このあと始まっていくのです。
熟成、そして汲み掛け。発酵の環境を整える

麹菌の働きをサポートするのに、欠かせないのが「汲み掛け」という作業。液体を循環させることで空気や菌を均一にし、発酵の環境を整える工程です。
しかし、たまり醤油には重石が乗っているため、一般的な醤油のように撹拌ができません。
そこでたまり醤油を木桶で作る際は、木桶の中に筒を通し、中に水分だけが溜まるように工夫。上に溜まった水分を汲み上げ、再び木桶の中に注ぎ戻していく――これが「汲み掛け」の工程です。

この作業を怠ると、空気を好む菌は表面に集まり、空気を嫌う菌は底に沈んでしまうため、発酵のバランスが崩れてしまいます。汲み掛けを通じて、蔵人たちはそれぞれの菌が心地よく共存できる環境を整え、一歩ずつ、たまり醤油を仕上げていくのです。
たまり醤油の真髄「生引」で年月をかけて一滴の醤油に

約2年間の熟成期間を経て、たまり醤油の醸造が終盤を迎えます。一般的な醤油であれば、圧力をかけて絞り出して出荷となりますが、たまり醤油にはもうひとつ、独自の工程が残されています。
それが、時間と労力をかけて醤油を取り出す「生引」と呼ばれる作業です。
たまり醤油ならではの重石を使った仕込み術によって、2年の間に木桶の上部はポンプで汲み上げられないほどの硬さになっています。そこでたまり醤油では、桶底の蛇口から水分だけを引く「生引」という手法で醤油を取り出します。

最初こそ勢いよく醤油が出ますが、中の固形物が乾き切るまでには、1年ほどの期間を要します。熟成にかかる年月だけでなく、生引にもまた、たまり醤油ならではの時間が費やされ、深みやうま味をもたらしているのです。
こうした生引の作業の後、木桶に残るのは、たまり醤油を生み出した大豆たち。
固まり切った固形物は、スコップを使い、蔵人の手によって堀り出されます。

さらにこの固形物は薄くスライスされ、圧搾機にかけられることで、再び醤油としての命を吹き込まれます。
この圧搾によって得られる醤油の量は、生引とほぼ同じ。2度にわたり、素材の力を余すことなく引き出しているのです。

山川醸造では、このふたつの醤油にそれぞれ異なる名を与えています。生引で瓶詰めされたものは「長良」、圧搾によって搾り取られたものは「みのび」。

「この方法でないと、昔からの濃厚でとろりとしたたまり醤油にはならない。この味をつなぐために、私たちは時間と労力を惜しまず醤油造りをしています」
真摯な眼差しからは、創業から受け継がれる蔵人のプライドと、たまり醤油の伝統を途絶えさせないという強い意志が伝わってきました。
微生物とともに醤油の出来栄えを左右する「木桶」

醤油造りの肝は、微生物。そう思われることが多い一方で、醤油の出来栄えを左右するもう1つの鍵が「木桶」にもあると言われています。
山川醸造で使用している木桶は、創業した戦中から変わらず使われているもの。しかも創業当時に集めたのは、酒蔵で使われていた木桶の“お下がり”だったそうです。
「このままでは、いつか木桶が一斉に壊れてしまう日が来るかもしれない」
その危機に最も早く気づいたのが、小豆島にある「ヤマロク醤油」という蔵元。山川醸造はヤマロク醤油が立ち上げた「木桶職人復活プロジェクト」に賛同し、2018年に新桶を発注。木桶仕込みという文化を、次世代へつなぐ活動を始めました。
しかし、いざ新桶で醤油を仕込んでみると、今までのものと味が違ったそう。同様に生引の「長良」よりも色が薄く、すっきりとした醤油の香りがあったと言います。
原料も環境も、仕込みの方法も同じ。違うのは桶だけ――。

振り返れば、今から25年ほど前に木桶の代わりにプラスチックタンクでたまり醤油を仕込んだことがあったと言います。そこで仕上がったたまり醤油は、検査結果の数値は同じでも、香りやコクが明らかに違ったそう。
この経験から、山川さんは「木桶には、ここにしかない生態系がある」と語ります。
「プラスチックタンクで作ると、入れた材料だけで発酵が進みます。でも木桶には、長年仕込みを重ねてきた歴史の中で、微生物たちが棲みついている。その乳酸菌や酵母菌が、材料に働きかけ、たまり醤油を仕上げてくれるのだと思います」
現在、新桶は初仕込みを終え、2度目の仕込みに入っています。歴史を重ねた木桶たちから、蔵の空気を伝って、新桶に菌が棲みつき、少しずつ「山川醸造の木桶」として、独自の生態系を育んでいくのでしょう。
伝統の味を届ける「山川醸造」のたまり醤油
伝統的な手法で、じっくりと仕込まれているたまり醤油。
山川醸造では、醤油の引き方によって「長良」と「みのび」の2種類のたまり醤油が看板商品として掲げられています。
国産大豆100%仕込みの「長良」

岐阜県産の丸大豆と、長良川の伏流水だけで仕込んだ「長良」。一般的な醤油は小麦も原料に入りますが、長良では小麦を一切使わないグルテンフリーのたまり醤油として仕上げています。
一般的な濃口醤油に比べて、深みとうま味が際立っており、少量でもしっかりと存在感を放ちます。
濃いめのテイストは、冷奴や焼き魚などにそのままかけてじっくり味わうのに最適です。
余すことないうま味が圧搾によって滲み出る「みのび」

長良を生引し、残った大豆から圧搾される「みのび」。
蔵人の手によって1年かけて掘り起こされ、ゆっくりと圧搾されるまでの間にも発酵が進み、長良とはまた異なったやさしい塩味に仕上がります。
しっかりとした味付けが好まれる魚の煮付けや、照り焼きに適しています。
醤油を使った多彩な味わいが直売所に

これらの商品は、山川醸造の直売所で、実際に手に取りながら購入できます。店内の壁には、長良やみのびをはじめとする醤油がずらりと並び、その豊かな色味と佇まいに思わず目を奪われます。
山川醸造の醤油を使用したお煎餅や、しょうゆマドレーヌ、サブレといった手土産にぴったりな品々が多いのも嬉しいポイントです。

また、たまり醤油を購入すると、4代目が祖母から受け継がれてきたとっておきのレシピが書かれた紙がもらえます。蔵見学で、醤油の魅力や歴史を知った後に来店すれば、より楽しみながら買い物ができるでしょう。
ディープな発酵の歴史を100年先へ

“醤油=発酵食品”と実感されにくい現代においても、山川醸造は麹作りから仕込みにこだわり、木桶を用いたたまり醤油造りを次の世代へと継承しています。
新桶での仕込みをはじめ、蔵見学や「蔵の開放」、さらには「果実瓶を使ったたまり醤油造り体験」なども不定期で開催。科学や理論だけでは言い尽くせない発酵の奥深さを発信し続けています。
たまり醤油造りの工程ひとつひとつを紐解きながら山川醸造を訪れてみると、普段は感じられない発酵の営みが、私たちの食卓にどれほど豊かな味わいを届けているかに気づけるはずです。
木桶仕込みのたまり醤油――国内流通量が1%に満たないその醤油造りを脈々と続けている山川醸造。ただ造り続けるだけでなく、製法にこだわり、木桶の存続に力を尽くしながら、次の世代へと技術をつないでいます。
あえて非効率な方法で手間暇をかけて、たまり醤油を仕込んでいるその信念を食卓から、そっと見守ってみるのも、きっと素敵な応援になるはずです。